価値あるものにお金を払うことは賢い選択だと思うということ

 高校生の頃の話だ。僕は本を読むのが好きだった。特に本屋さんで本を買って読むのが好きだった。でも月に貰えるお小遣い5000円は、充分に努力してくれている額だと知っていたし、お小遣いを増やしてなんてとても言えなかったし、思わなかった。

 僕は欲しいものが増えたからと、バイトを始めた。時給750円のスーパーのレジ打ちのバイトだった。正直に言う。苦痛だった。僕自身が要領が悪くて、レジ打ちが遅いというのも申し訳なかったし、コミュニケーションが下手で、接客が下手だったのもあった。

「君のところが一番遅いよ!!」

と言ってくるお客さんもいてツラかった。自覚があるだけにツラかったのだ。

 別に働いてお金を稼いだからエラい、とも思えないし、思わなかった。飽くまでもバイトはバイトでしかないし、時給750円ではどれだけバイトしても大変だと分かっていたし。

 では何が良かったかというと、苦労してバイトして稼いだ月額3500円のバイト代で買えた本は、僕の宝物だったという事だった。

 働いて稼いだお金で買ったから、ではない。たとえ100円のものであっても、それを買うためには、まずは当時の最低時給額である750円の仕事を、1時間はしなければ得られない、という事が理解できたからだ。

 欲しい本がある日、突然本屋さんから消える事はいくらでもあったし、通販であっても在庫が永遠に補充されなくなる本はいくらでもあった。

 別に僕が買った本の代金一冊分程度で、誰か作家が幸せになったわけでもないだろう。だが別にそれでいいのだ。

 僕が買った本は、確実に僕の手元に残り、本屋さんで働くアルバイト店員のお給料の元にもなり、本屋さんの経営主の経営資金の元にもなり、本の印刷会社の利益になり、本を流通させている運送会社の利益になり、出版社の利益にもなり、その本が少なくとも確実に1冊はその本屋さんから減った事の証明となり、それが回り回って世の中に様々な利益を与えるのだ。

 そして僕は自室で楽しく本を読めるのだ。図書館で借りた本と違って、いつでも、いつまでも。

 裏を返せば、僕の不器用な手がするレジ打ちであっても、お金はそれを、「価値がある」と認めてくれた印でもあった。スーパーの店長は僕の労働を、お金を払って買ってくれたのである。

 何かにお金を払って買うということは、それがたとえ目に見えないものであっても、たとえば食べ物とか、髪を切ることとかであっても、それは記憶とか体験として残る。

 買った側は代金を払うことで、体験としての価値が得られ、売った側は苦労して得た技術で作った体験を売る事で、代金を得られ生活できる。

 つまり、それは世の中に価値があるものが増えていく、という事なのだ。

 苦労してお金を稼ぐのが良いことだとは思わない。だが、苦労してお金を稼いだからといって、価値あるものに相応の報酬を払わないのは間違いだと思う。

 だってそれは裏を返せば、「苦労して作った会社で働く社員に、相応の報酬を払わない経営者」と同じ考え方だからだ。結局、誰かに相応の報酬を払わないということは、不当に誰かの何かを、報酬を払わずに得ようということは、回り回って自分の首を絞めるのだ。

 価値があると思ったものには、相応の報酬を払って手に入れる。それはとても賢い選択なのだと、だから僕は確信をもって言える。