今は恋慕の感情は捨てる事にしている、という話
僕が今住んでたり働いてる所は、まー色々あって障害を持った方が多い場所だ。
僕自身が病のせいか、神経が過敏になっているというのもあるのだが…
彼らが耳栓をしていても響くほど大きい声で話したり、順番を守れなかったり、自分勝手に行動してしまう(というより、障害特性上、他者を思いやる事が出来ない)というのを見たり、まさに彼らの行動によって、僕が実害を被ったりして苦しいことがよくある。
だが障害は障害であり、「ここをこうして」と指摘して治るものではない。
だからいつも「どうしようもない事なのだ」と自分に言い聞かせるようにして、怒ったりしないように気を付けている。
働いたり住んでいる場所は、ほぼ男しかいないのもあるし、女性が入ってくるとしても、その方も障害を持った方な事が多いため、必然的に恋愛は無縁な生活となる。
そんな中で、いつも優しく接して下さる看護士さん方には頭が上がらないのだが、優しい看護士さんに恋慕の念を抱いてしまう事がたまにある。
だが恋慕など抱いた所で、僕のような薄汚く、お金もなく、何の才能も持たず、それでいて鬱病であり治療中の人間が、看護士さんを幸せに出来るわけがない。
ハッキリそう理解しているからこそ、悲しいものがある。
同じように諦めてきたものは沢山ある。僕側は相手のことが好きだが、相手は僕のことをどうとも思っていない、なんて事はザラだし、当たり前のことだ。
異性の友人に対する恋慕なども、そうして諦めて生きてきた。情熱が物事を解決できるとは限らないからだ。
そして、相思相愛になれたところで、お金がなかったり、職がなかったり、話したりする時間がなかったりすれば、関係など長続きするわけがない。
誰かと愛し合えたところで、だからなんだというのだろう?結局、それは男と女の仲になるというだけの話ではないか。
友人の関係や知り合いの関係を長続きさせた方が、結果的にお互い幸せな事もあるだろう。
一度男と女の関係になってしまえば、たいていそれは結婚するか別れるかまで行ってしまう。
そう考えれば、友人としての関係を長続きさせるというのは、素晴らしい事ではないか。
愛する相手が、生きてさえいてくれればそれでいい。最近はよくそう思う。僕が相手を幸福に出来なくとも、相手が生きてさえいてくれたらそれでいい。
もちろん、僕は僕で、病を治し、収入を増やせるよう、努力はしている。資格を取っていこうと毎日勉強している。
だが、だからといって誰かにすぐ愛して貰えるわけではないだろう。それにある日突然、僕をすごく愛してくれるようになる人というのは、確かにたまにいるが、それは結局大抵が、情緒不安定な人というだけだ。
感情の波が不安定な人が、たまたま優しく接した僕にピントが合って、僕に好意を向けてきただけだ。
そういう人はたいてい、また不安定な感情の波が負の側に振れるや否や、僕に「どうしてももっと愛してくれないの」と詰め寄る。すぐに嫌悪に振れ、僕を拒絶する。
それにそういった人は情緒不安定だからこそ、誰にでも「愛して」と詰め寄っては、また嫌悪するというパターンを繰り返す。悲劇のヒロインにおける自分を楽しんでいるのである。
僕はそういう人との、ひとときだけの逢瀬を楽しめる人間ではない。もう疲れてしまった。懲り懲りなのだ。幸せな家庭へと繋がる、未来のある恋がしたいのだ。
だからこそ、たまにサボりつつ、Twitterに妄言を吐きつつ、エロ絵など描きつつ、資格など勉強していきたいと思っている。